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21 犯罪に遭う

クアラルンプール マレーシア

2003.06.27





 KLCC(クアラルンプール・シティ・センター)は、この街きっての近代的でにぎやかなスポット。世界一の高さを誇る(*)、とうもろこしみたいな形のペトロナス・ツインタワーと、ショッピングセンター、噴水公園などがある。 (* あとで脚注をごらんください)

 6月のある日、この近辺で仲間内のランチ会に参加した。国籍はさまざま。地元やアジア各国、ヨーロッパ、南米など、総勢11人。

 ランチ会を終えると、皆それぞれ、思い思いの方向に散って行く。私はオランダ人のメイ、日本人のアサミ、中華系マレーシアンのキャシーの3人と一緒にKLCCの電車の駅に向かった。

 このあたりの道路はよく整備されていて、交通量がやたら多い。四辻交差点は避けて、少し歩いて、信号機のある歩行者専用の横断歩道まで来た。信号待ちの先頭がキャシーと私、その次にメイとアサミが並んだ。左右から来る車たちが次々と停車し始めた。もうすぐ歩行者用信号が青になる。

 信号が変わった。
「行くよ、キャシー」
右に声をかけたら、キャシーは靴の紐がほどけたらしく、うずくまって直している。私は既に道路に一歩踏み出していた。

その時。

 !!!

横断歩道の右に止まっていた二人乗りバイクが急発進した。

 ― えっ信号無視!?―

 ― 轢かれるっ!?―

立ちすくんだ途端、いきなり右手がぐいと引っ張られた!


 いや、正確に言うと、右手に握っていた布バッグがわしづかみにされてぐいと引っ張られた。たぶん私はとっさにバッグを手から放したのだろうが、勢いでバランスを失い、そのまま道路に倒れこんだ。右手が伸びたままだった。バッグが遠ざかって行くのだけが見えた。

― ……、やられた……。 ―


キャシーとメイとアサミが駆け寄ってきて起こしてくれる。
「大丈夫?」
「けがは?」
「早く!歩道に戻って!」

道路にはまた車が流れ出した。
白バイが来て止まった。

白バイ「kei#jfhs*aprp?」(マレー語)
キャシー「gru\eu%ydjfiti !!!」(マレー語)
メイ「SNATCHER !」(英語)
アサミ「行ってー!早くっ!」(日本語)

白バイが走り出した時には二人組の姿はもうなかった。



 よく見たら、右手のひじと手の甲を擦りむいていた。それ以外に痛いところはなんにもなかった。服もぜんぜん汚れていなかった。

 インド人のおじさんが通りがかって
「そこのビルの2階に病院があるから行きなさい」
「あ。……でも軽い怪我だし、ポリスにも行かないと……」
「ポリスはその後でもいい。体のほうが大切だ。行きなさい」

 おじさんの言うことはもっともだ。3人に付き添ってもらって、教えてもらった病院に行く。歩きながら、これから何をどうすべきか整理しようとするが、頭が回らない。

 全部盗られてなにもない。
 お金も。
 携帯電話も。

 お金はしかし、この3人がいれば貸してもらえるだろう。だが携帯は……、連絡先が全部入っている。手帳タイプのアドレス帳もバッグの中だった。クマさん(筆者の連合い)の携帯番号……覚えてない。どうしよう。

 病院の窓口で紙を渡され住所、氏名などを書くようにと言われる。右手でペンを握る。震えている。うまく書けない。いつもならすっと出てくる自分の住所の郵便番号がどうしても思い出せない。郵便番号は省略して、診療室に入った。

 インド人の女医さんが、傷を消毒してくれながら静かに話しかけてくれるが、半ば上の空で応答していた。

「この辺は頻繁にあるのよ。ポリスももっと巡回すべきよね。あなた、パスポート持ってたの?」

「いいえ」

「クレジットカードは?」

「いいえ」

「それならまだいい方ね。大きいのは現金くらい?」

「はい、それと、携帯電話……、あ〜、そうだ……。家のかぎ……。あ!住所がわかるものもある……」

「それじゃ、家の鍵も全部取り替えなくっちゃね」

「そうですね……、あとは……、たぶんなにも重要なものはないです」

「お友達と一緒にいたのね。誰が被害者になってもおかしくないわよ」

ここではた! と頭が現実に返った。

「そう、……、そうです! 友達のひとりは妊娠してるんです。よかった、転んだのが……」

「彼女じゃなくって?」

「ハイ」

女医さんは優しい笑みを見せてくれた。彼女と話しているうちにだんだん頭が整理されてきた。

「外傷だけで特になんともないと思うけど、何かあったらまたいらっ
しゃい」

「はい、どうもありがとうございました」

待合室に戻るとすぐにメイのおなかに目がいった。もう来月、出産予定である。

「どう? 痛い?」
気遣ってくれる彼女に

「(転んだのが)メイじゃなくってよかったよ〜」 と言える余裕が出来ていた。

 アサミが治療費を貸してくれた。キャシーが受付の女性にポリスの場所を聞いてくれた。

 3人とも、ランチ会の後はそれぞれ予定があっただろうに、皆ポリスまで同行してくれると言う。ありがたい。しかしここで、メイには家に帰ってもらうことにした。



 さて、ポリスの前に。

 クマさんに連絡せねば。アサミが自分の携帯を使っていいよと言ってくれる。しかし、番号がわからない。

キャシー「イエローページで、クマさんの会社の番号調べようよ」

 それもそうだ。しかし実際のところ、クマさんが通う事務所は2か所あり、どちらの総務からも本人には連絡が取りにくいので、携帯電話しか使っていないのが実情である。でもこの際、あ〜だこ〜だ言ってはいられない。

私「イエローページはどこで?」
キャシー「ブリティッシュ・カウンシルが近いから行って借りよう」

 ん? ブリティッシュ・カウンシル……
 おおおおお、おお! おお! おお、そうだ!
 キャシーもメイもアサミも私もブリティッシュ・カウンシルの会員なのだが、クマさんの会社の同僚の K さんの奥さんもそうであることを思い出した! ブリティッシュ・カウンシルで K さんちの電話番号が聞ける!

 目の前に光がさーーーーーーーーーーっとさした。

 レセプションで事情を説明して K さんちの電話番号を教えてもらう。アサミの携帯で K さんちにかける。奥さんが出た!
「すみません、ワケはあとで説明しますから、うちのクマさんの携帯番号教えてください」
K さんの奥さんが、すぐに会社の名簿を探してきてくれた。ありがとう、K さん!

 そこへ、館外で待っていたはずのキャシーが走り寄ってきた。
「そこで偶然友達に会ったの。彼女車持ってるからポリスまで乗せてってくれるって。さ、行こ、行こ」

 促されるままに外に出たら、キャシーの友達が既に車を回してくれていた。
「ハロー、私、ケリー。よろしくっ!」

 ハスキーボイスで威勢のいい、可愛らしい人である。キャシーが助手席に、アサミと私が後部座席に乗り込んだ。車の中でアサミに携帯を借りて、クマさんに電話する。

・ひったくりに遭った。
・けがは軽傷。病院も行った。
・一番心配なのは家の鍵。住所がわかるものが一緒に入っている。
・あとは現金、携帯電話、免許証。ほかに重要なものなし。
・今、ポリスに向かっている。ローカルと日本人の友達が一緒。

 このころには相当落ち着いていて、順序正しく必要なことだけを伝えた。クマさんが早速会社の総務に連絡して家(社宅扱い)の鍵を取り替えてもらうよう手配する、と言って電話が切れた。

 あらためて運転席のケリーと助手席のキャシーに礼をいう。特にケリーなんて、全くの初対面なのに、しかもその辺で偶然自分の友達のキャシーに会ったというただそれだけなのにこうしてポリスまで3人を乗せて運転してくれている。

 ごく軽い怪我で済んだこと
 友達がそばにいてくれたこと
 通りすがりのインド人のおじさんのアドバイス
 心しずめてくれた女医さんとの会話
 ブリティッシュ・カウンシルが近かったこと
 ケリーとの出会い

 こうしてみると、大して重要な損失はないし、必要な時に役に立つ人が次々と現れて、私ってなんてラッキーなんだろうと思うと、事件以来初めて涙が出た。ぽろ。

***

 マレーシアでは公務員の80%以上がマレー人で、特にポリスはほぼ100%に近いかと思えるほど。話される言語も公文書もすべてマレー語である。

 ポリスでの待ち時間に、盗られたバッグの中身をひとつひとつ思い出しながら英語で全部リストアップした。しかしいざ名前が呼ばれて担当警察官の前に行ったら、相手は英語も多少理解するものの、そこはやはり100%マレー語の世界。クアラルンプールに暮らして、こんなのは初めてだ。なにもできない。私、無力なタダのガイコクジン。

 キャシーが応援に来てくれた。次いでアサミも。(アサミはマラヤ大学の集中コースでマレー語を学んだ人) 左にキャシー、右にアサミ、目の前に警官というマレー語トライアングルの中で、私のリストをもとにポリスレポートがコンピューターに打ち込まれて行く。結局私はただ座っていただけで、あれよあれよとレポートが出来上がっていった。キャシーは目撃者としてサインまでしてくれた。

 私がポリスに居た間にも電話が何度も鳴った。警官が言う。

「またあったんだって、KLCCで。今日はこれで10件目だな」



 ポリスを出るとなんとそこにケリーが待ってくれていた。

「近くまで送ってくよ!」

 時刻は6時を過ぎていた。会社帰りの渋滞の時間帯で、しかもケリーにとっては遠回りになる道である。

「今の時間、電車で帰らない方がいいよ。混んでるから人と触れて傷が痛んじゃうよ」

 またもや人のやさしい気遣いに甘えることとなった。キャシーとアサミは互いに住まいが近くて、私の所はそこからさらに車で10分の距離である。アサミの住まいの近くまで3人を送ってもらい、そこで私はクマさんにピックアップしてもらうことにした。

ケリー「私、ニッポン大好き! 行ったことないけどね」
キャシー「そうそう、ケリーの元カレシは、ナンミョ〜ホ〜レンゲ〜キョ〜なんだよ」
ケリー「ありゃカレシじゃないよ」
きゃはははは……
明るい笑い声が車内に響く。

ほっとして、ありがたくて、また涙が出た。



 夜、家に着いてシャワーを浴びた。傷がちょっとだけしみた。

 早速メイからメールが入っていた。
「その後どう?ポリスではどうだった?」
「万事オーライよ、メイたちのおかげで」

 頻繁に起こる犯罪が、ポリスも対処しきれずに野放し状態になっているのもマレーシアならば、見ず知らずの人にでも、連携プレーでこんなに親切にしてくれるのもまたマレーシアである。

 今回私は、得るものこそあれ、失ったものは、なにもない。

 おそまきながら、クマさんの携帯番号も覚えたことを加えておく。



(*注) ペトロナス・ツインタワーの高さが「世界一」なのは、「ツインタワーとして」という意味です。シングルのビルではもっと高いものがあります。(2005年追記)



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最終更新:2005.01.27
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